白と紫

もうすぐ私の好きな花が咲く。今日近所のその花、というよりは樹木と呼んだらいいのだろうか、木の横を通ると、つぼみが膨らんでいて、あと数日後には開花だろうなといったところだった。

先日京都まで出掛けていくと、その花をたびたび目にすることになった。中にはもう咲き始めたものもあった。その花は白と紫があり、京都で見かけたものはほとんど―いや、白しかお目にかかれなかった。私の近所にいるその花は紫だから、それでよかったのかもしれない。

その花が散る頃に桜は満開である。ちなみにその花とは、木蓮のことだ。花弁が大きくて、存在感のある花。それゆえ散るときは鮮やかな鳥の死骸が連なったように、グロテスクでもある。桜よりも木蓮が咲くのを、私は毎年楽しみにしている。

 

この春はまだかと待つ季節、花の移り変わりが目まぐるしい。まずは梅が咲き、梅が散れば次は椿、そして椿もいま花弁が変色し始めている。茶色くなった花弁がアスファルトを隠したとき、きっと木蓮は咲くのである。それから日本人誰もが愛でる桜、躑躅と不思議と開花時期は重ならないまま、私達を楽しませてくれているのだろうか。

去年くらいから、私はこの花たちの交代劇にようやく目を留めるようになった。それまでは花なんて枯れていようが咲いてようがたいして気にかけたことはなかった。私もそれだけ、興味や関心ごとが変わってきたということなのだろう。

 

今年は木蓮に勝手ながら願掛けをした。木蓮が散るまで、ある人からの連絡を待ってみようと思っている。つまりこちらからその人へ連絡しないということ。あの人がいなくても、木蓮が咲いている少しの間だけ、私はその人ではなく木蓮のことを思っていればいい。あの存在感に少しだけ縋っていたい。それでいいかな。